物事には何らかのきっかけがあったりして、そこから思わぬ展開があったりする。
以前、FC琉球との出会いと応援する自分なりの動機を書かせていただいた。
今回は、そもそも私が南の島へ行くことになった経緯は何だったのかについて、私事を検証してみた。
大学時代の頃。あまり金もなく、冬は灯油も節約する日々。
特に1年生の冬はまったく暖房設備なしの中での東京での「第一次越冬」
友達のアパートに夜遅くまで居候して、それから自分の部屋へ戻って就寝するということをしていた。
何か寒さと相まって、辟易していた気分になっていた事は確かであった。
「南の島へ行けばこんな季節でも暖かいのにな・・・・」そんな漠然とした思いは常に描いていた。
そんな中、ひょんなことから友人と三宅島へ行く機会があった。
前々回の大噴火があって、復旧は何とか一段落したあとの頃の事である。
東京竹芝桟橋の船客待合室には、1枚のポスターが貼ってあった。
検疫関係のお役所の、植物類持ち込み禁止の注意書きである。
「小笠原諸島からは、何何の持ち込み禁止」
「奄美大島な南西諸島どからは、何何の持ち込み禁止」
「沖縄からは、何何の持込禁止」
云々・・・・・・
これらの島々の文字は、日本国内のことであるイメージはほど遠かった。
しかしそれが、逆に何か不思議な好奇心に繋がったことも確かである。
三宅島のその南には御蔵島、八丈島と南へ島々が連なる。
「南の暖かい所への想い」は、その頃に頭の中に萌芽していたのだろうと思われる。
迷うことなく卒業記念旅行は、小笠原へ行ってきた。
田中一村(たなかいっそん)という画家がいた。
日本画家。
天才的な才能を持ちながら、紆余曲折があり、中央画壇の権威とか慣習しがらみに背を向け、ただひたすら自分の境地を追究することを通した画家。
「俺流」を貫き、その画家が自然と辿りついた地は奄美大島だった。
1982年、美大の学生であった私は、その時NHKの「日曜美術館」で初めて世に紹介された放映を見て、頭をが〜〜んと殴られたような衝撃を受けた。
すごい。それしか表現のしようがなかった。
こんなすごい表現があっていいんか?!
自分が今まで勉強していた絵画って何なのか。
そんなことも自問自答させる出会いでもあった。
それらの学生時代の想いを秘めつつ歳月は流れた。
社会で働くようになり、その間、日本中いろんな所へ旅をした。
40歳も超えた。
今まで長年勤めていた組織は、すっかり変わり果ててしまった姿に辟易していた。
そんな中で、偶然にも神戸で田中一村の回顧展が開かれた。
それをきっかけに、学生時代から持ち続けた想いが表面化し、ついに奄美大島への旅をすることとなった。
田中一村記念美術館を訪れた。
20年目にして、ようやく憧れの一村に出会えた旅だった。
奄美大島で見る光景は、これまでの本土の雰囲気とは一線を画したものだった。
その旅が「南への想い」をさらに深めたことは確かである。
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ほどなく、リストラという大きな出来事。
メンタル的に投薬が必要な極めてギリギリの状態に陥ってしまった。(今も服用継続中)
しかし、私は「自由の身」となり解放された日々ができた。
それが「奄美から、さらに南」への旅をする機会でもあった。
水平線からいよいよ辺戸岬が見えてきた。
4月ではあるが、暑い陽射しに照り付けられていた安謝の岸壁のコンクリート。
記念すべき琉球の第一歩をしっかりそこに置いた。
その一瞬は今までのいろんな事の清算と、新しく展開するであろう「これから」の始まりのまさに分岐点の一瞬でもあるに違いないと思っている。
PS
え〜、ちなみに。
その上陸のすぐあとに、まさに「知らぬが仏」で、りっかりっか湯へ行ったことはトップシークレットである。


